後ろに引けない僕のエッセイ

後に引けなくなった僕の日記です

2019/08/02

なぜ彼女の存在に腹立つのか分からない。正直熱のつくタイミングが早すぎるとも感じるし、それは過去の僕を見ているようでぶん殴りたくもなるのだけど、そうした所でメソメソと僕の被害者意識が頭をもたげるのでやるべきでない。

 

今日もやけに日が差して、みんなが暑い日差しを嫌がっている中僕はとても日差しを求めている点、普段ろくに外に出ない僕が日を求めるのは必然なわけで、いくら嫌なものであってもなければ欲しくなるものだなと、人間が結局無い物ねだりの生き物なのだと実感させられる。

だからここ最近で1番夏が心地よい。高校は3年間暑い中の作業が連なり、冷房をオアシスとして崇めていたので、ただそれが逆転しただけで精神的苦痛がほとんど無くなった。(その一因に僕がストパーをかけて巻き毛を気にする必要がなくなったというのもあるのは事実で、いかに自分が容姿を判断基準としているのかが分かる)

 

僕は尾崎世界観の本を読んだ。

精神的な面で僕は彼のフォロアーであるなと実感させられたし、実際僕が救われる時はクリープハイプの曲が耳元にはあったので、好みの性はまた「質」として僕の中にある支柱なのだと思う。そこはかとなくクソ野郎というか、人間として自堕落、欠落した人間性を自らを被害者とするところに、自分の周りのセカイを敵としてみなす碇シンジ的、言うなればセカイとゼロ年代の空気を感じる。それを2010年代の若者の生活に落とし込んだ風味が僕は好きなので、クリープハイプ浅野いにおというダブルパンチの地雷源が僕は大好物なのだ。というか、捻くれた感を持って育った僕の同世代は、彼らを好きにならざるを得ないのではないのだろうか。自分を特異な存在とし、実は全くそうでもないのに自分に酔った感傷的な男性像、またはそれを追う女性像、それに傷つく生活というのを憧れとして置き、少ない自分の人生へのエッセンスとして加えることがどれだけ安定剤となり、アイデンティティの確立の材料となりえるか。その犠牲になった若者が数万いると考えれば途方に暮れてしまう。

 

そんなんだからそれを再現したいとも考えるが、それは「老害」たらしめる考え方であり、今の時代にコミットした新しいスタイルが必要なのは確かなので、彼らのことは好きであっても出しすぎないようにしようと思う。一回り年の違う彼らとは吸ってきたものも僕は違うので、この年なりの荒み方もあるんじゃないかと探している。